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応用生態工学 2(1), 1-5, 1999

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巻頭言 PREFACE

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風景画としての河川生態学研究1)

石川 忠晴

東京工業大学大学院総合理工学研究科 環境理工学創造専攻

Tadaharu ISHIKAWA: Landscape painting as a new paradigm of stream ecology.Ecol. Civil. Eng. 2(1), 1-5, 1999.

Environmental Science and Technology, Interdisciplinary Graduate School of Science and Engineering, Tokyo Institute of Technology 4259 Nagatsuta-cho, Midori-ku, Yokohama 226-8502, Japan

東京工業大学の石川と申します.私は,この学会(日本生態学会:編集部注)に出席するのは今日が初めてで, 実は学会員ではないのですが,このセッションのコメンテーターをするように言われて,何をお話すればいいのかわからないままやってきました.で,今朝,山岸哲先生(京都大学理学部動物学教室:編集部注)にお会いしましたら,河川生態学術研究会の方向性についてもコメントに含めるようにとご注文いただきまして,ますます困っています.と言いますのは,私は生態学について全くの素人だからです.しかし,取りあえず,コメントさせていただくことにします.

まず始めに,私の専門性について話しておきたいと思います.土木工学の中の水理学というのが元々の私の専門分野で,最初に話題提供いただいた藤田さんと同じですが,流体力学的な側面から,環境中の物質移動などを取り扱っています.ですから,流れの計測とか数値シミュレーションとかで,物質流動の詳細を理解することを目的に,若い頃から研究をやってきました.で,そういう細かいことを40代後半まで地道にやってきて,最近思うことは,「こんなふうに積み上げていっても,定年までに果たして何ができるのだろう」ということです.そのような思想上の行き詰まりを予感してしまうのです.

さて,伺ったところでは,この河川生態学術研究会は, 河川工学と生態学という,学問分野が異なるだけでなく思想的にもかなり異なる方違が集まって,とにかく一緒に河川を研究しようとしているとのことで,こういう試みは,何か新しいパラダイムを生み出す可能性があると思うんです.それで,私が感している思想的行ぎ詰まりを,この研究会が解決してくれるかもしれないという期待を抱かせてくれます.今日は,そういった期待について,話させていただきたいと思うんです.

私達は「科学」というものをやってますげれども,言うまでもなく科学は分析的思考を基本とする学問です. しかし科学は,単なる学問というより,近年では一種のイデオロギーみたいになっているところがあるように思います.科学的という言葉が日常的に使われるようになったのは比較的最近ですが,今では,日本語の中でかなり威張っている.「あなたの言うことは科学的でない」という一言は,「あなたの考えは民主的でない」というのと同じぐらい,人の心を傷つけます.そういった社会的強制力を持っている.

しかし,科学とはそんなにたいそうなものだろうか. 特に環境研究のフィールドワークを長年やってきますと, ものごとを細かく仕分げしてそれぞれを分析的に考えるぐらいで環境のことがわかるか,と疑問を感じるのです. 科学的見方だけでは何かが足りない,科学とは異なる別の思考方法も持たなければ物事の全体が見えてこないのではないか,という気がするのです.そういった新しい思考方法がこの研究会で生まれることを期待するのです.

話の順番として,まず,私達が研究対象とする「自然」とか「環境」とはどういうものか,私なりの定義を述べたいと思います.「自然」という言葉を辞書で引くと「他者の力を借りないで,それ自身に内在する働きによってそうなること」と害いてあります.「内在する働ぎ」ということからわかるように,自然の担い手はシステムであり個々の物体ではありません.そして,そのシステムは自律性つまり自分のリズムを持っている.

例えば,野山で暮らしているウサギは,自然生態系というシステムの一翼を担っているという意味で自然の一部ですが,倍に入れられてニンジンを与えられるようになったら自然とは言えませんね.しかしそれでは,人手が加えられたら自然でないかというと,そうとも言えない.日本には人手が加わえられていない所なんてほとんどないわけですが,それでも田舎の野山には自然性を感じる.その場合の人手は,永続的な営みの中で全体システムに組み込まれた人手であって,学年度国家予算で雇われた人手とは異なるものです.

そういうふうに自然というものを考えてみますと,「環境」は,自律的に運動するシステムを,その内部の構成要素を視点として表現する言葉,というふうに理解できると思います.したがって環境の整備とはシステムの整備であって,とりわけ,そのシステムの持っている自律性を保全したり正常化したりする行為と言えるでしょう. 河川生態学術研究会の目的は河川環境を整備する学問的裏付げを構築することだと私なりに解釈していますが, その本質はそういうことだと思います.

さて,それでは具体的に,どこに着眼して環境のシステムを捉えていけばいいのか.私は「個性」ということではないかと思います.自律的に運動するシステムは, 必ず個性を持つものですが,このことを人間を例にして説明させてもらいます.人間も,自律性を持った巨大なシステムですが,一人一人違うのが当たり前で,つまり個性を持っています.

このような人間を認識して記述するのに二つの立場がある.一つは医者の立場です.現代医学は科学の一種ですから,分析的且つ一般的に物事を見ようとします.その結果,一人で全部は見切れませんから,専門分化します.眼の医者がいて,鼻の医者がいて,胃袋の医者がいて,脳の医者がいて,神経の医者がいて・・・. それらの知識をつなぎ合わせると,多分,人間の平均的な仕組みがわかります.しかし,それで人間の全てがわかるかというと,そういうことはないわげです.なぜなら,世の中には,平均的な人間がたくさんいるのではなくて,たくさんの違う人間がいるからです.

で,もう一つの人間を記述する方法というのは,小説です.小説家は明らかに人間を記述していると言えます. 小説に登場する人間は,皆個性を持っています.ある生い立ちを持って,あるシチュエーションで,ある行動を取る.そういう意味では個別的であり,普遍的とは言えません.しかし私達は良い小説を読んだ後には,「ああ, 人間とはこういうものか」,「人生とはこういうものか」という一種普遍的な理解に到達するわけです.これは, 現代医学とは別の方法による人間の記述であります.

私は,環境の理解や記述においても,こういう立場が必要ではないかと思うんです.パラパラに分解して詳しく調べてつなぎ合わせれば全てわかるというものではなくて,全体を,何か人格を持ったものとして理解する必要もあるんじやないか.全体としての個性を見る.そして評価する.ま,自然科学は必ずしも環境を評価する必要はないわけで,理解すればいいのですが,河川生態学術研究会は,その目的が河川環境の整備に関係するので, 何らかの評価が必要になるでしょう.

では,環境という,自律的に運動するシステムを評価するとはどういうことなのか.ここでも人間を例にして話をします.人間は一人一人個性がありますから,一次元的な尺度で全て評価できるということはあり得ないですよね.ある面ではA君がB君より優れているとしても, 別の面ではB君がA君より優れている,ということもあるわけです.また,ある面でA君が劣っているのは,別の面で優れていることと一体的かもしれない.長所と短所というのは分離しがたいもので,それを実は個性というわけです.

そういう個性を持ったシステムを評価するとはどういうことなのか.それは要するに,そのシステムが持っている応答特性を全般的に把握するということです.喩えて言えば,長い問運れ添った夫婦がいて,その奥さんが且那さんを全人格的に理解するようなものです.「うちの人はこういう人だからしょうがない」という言葉には重みがあります.何がしょうがないのかはわかりませんが, 長年連れ添っている問に,言葉ではうまく表現できなくとも且那さんの全てを理解しているわけで,第三者としては「まあ,そうか」というふうになるわけです.

で,環境というシステムの理解と評価も似たようなものではないかと思うんです.「この川はこういう川だから・・・」,「この流域はこういう流域だから・・・」そういう全体的な評価が,これからの河川環境管理において必要であろう.その意味で,河川工学の人と生態学の人,また必要ならそれ以外の色々な分野の人を入れながら,「全体的なものの見方」というのを研究していくのがいいんじやないかと思います.

では全体的なものの見方を養うために,具体的にどうしたらいいのか.私も明確な答えを持っているわげではないのですが,こんなふうに考えています. この絵(図1)は,ある本の表紙から取ってきたものですが,ヨーロッパかアメリカ東部の町並みのように見えます.どうしてそう見えるのか.それは多分,それぞれのパーツが持っている特徴と,それらがつくるある種の関係が,そのように思わせるわけです.ところが,細かいところをよく見ると,この絵はかなりいい加減でして,窓の形がパラパラだったり,ドアより人間の方が大きかったり, いろいろおかしなところがあります.でも私達は,「多分,西欧の町だろう」と認識します.その理解は,細部がどうだということではなくて,要するに全体的特徴がそうなわげです.


図1

こういった理解に対して,科学がどの程度役に立つのだろうか.そこで現代科学の描く絵というものを考えてみましょう.現代科学は超写実派の画家です.事実をそのままに,しかもできるだけ詳細に描くほど,その画家は優れていると言われます.その意味では,先ほどの絵は,もうこれは落第ですね.例えば,ドアや窓の大きさがパラパラである.それから屋根元.屋根元はみな同じ形をしていて雨が入らないように互いに適当な重なりを持っていなければ屋根瓦じやない.樹木の樹冠は葉つば一枚一枚からできているのだから,こんな毛糸の玉みたいであったらおかしい.そして枝には毛虫がいて,その毛虫の種類は木の種類と整合していなければいけない. それから,空に浮かぶ雲は断熱膨張の結果だから,力学的にそのような形になっていなげればおかしい.できれば水滴一つ一つを書くべきで,それが科学的に優れた画家というものである.

しかし,そんなふうにやっていたら,絵はいつまでたっても完成しなくなります.そこで科学は分業する.屋根瓦担当の画家とか,樹木担当の画家とか,人物担当の画家とか.それで一見片づくように見えますが,しかし今度は,全体の整合性が問題になります.場所によって精密度やスピードがかなり変わってしまうでしょう.例えば,屋根瓦なんていうのは描くのが簡単ですから,それを担当する画家は一年問に何百枚も描いていく.さらに,時間の余裕を生かしてミクロン単位の凸凹まで描いてしまうかもしれない.しかし樹木担当の画家はそうはいかないでしょう.風が吹くと葉つばが揺らぎ,中には落ちてしまうのもある.ぐずぐずしていると冬になって葉つばが全部無くなってしまうかもしれない.そうすると,屋根瓦担当の画家ばかりが評価されて,例えば大学なら,そういう人ばかりが教授になってふんぞり返る. これでは風景画は成り立ちません.

科学のさらにまずいところは,科学的に難しいところは放っておくということです.中谷宇宙郎先生の「科学の方法(1958:岩波害店)」という本だったと思いますが,「科学は,科学的に取り扱いやすいことだげを選んで取り扱う」と書かれています.例えば,流体力学を利用して飛行機を飛ばすのは簡単だからみんなやるげれども, ハンカチを落として床のどこにどういう姿勢で落ちるかを言い当てるのは難しいから誰もやらない.というように,やウやすいことだけをやる.その結果,すごく歪んだ絵になります.屋根瓦ばかりやげに詳細に描かれていて,他の部分には空白がいっぱいある.全体的な整合性は全く気にしない.絵,特に風景画は,ものごとのつながりが命なのですが,現代科学はそういったことを全然気にしません.

以上,いろいろ述べてきましたが,要するに,環境を研究する作業は風景画を描く作業と似ているのではないか,ということです.環境はたくさんのバーツがつくるシステムですから,バーツのつながり具合を解析することが大切です.屋根元ばかりマニアックに描いていてどうする.いろいろなことを,必要な程度たけ詳しく描いて,そのつながりから生まれる全体性をきちんと理解することが肝心です.これが重要なことの第一.

もう一つは,分業で絵を描くこと自体がおかしい.絵というのはだいたい一人で描くものです.複数で描く場合でも,全体の構成に責任を持つマスターがいて,後は助手です.その結果として,風景画は今までどのくらいの枚数描かれているかしれませんが,一枚一枚みな違う個性があって,そこがいいところです.環境の認識も, やはり,それぞれの人が全体的把握を試みることが大切です.そういう意味で,前のコメンテーターである中野繁さんが話されたことに私は賛成です.つまり,もともとの自分の専門以外の項目についても,自分で計測したり解析したりして,ものごとのつながりを考えることは, 環境研究において是非とも必要なことだと思います.

さて,ものごとのつながりを捉えていく上で,フィールドを固定して,そこに生起するいろいろな現象を同時に把握することが望ましいと言えます.その意味で,この研究会で取られているスタイルに私は大賛成です.つまり,とりあえず対象河川を3つ選んで,ワーッと集合して研究を始めるということですね.実は,私自身,そういうスタイルでやってます.面白そうなフィールドを選んで,そこでいろいろなことを調べて記述する.これは,先ほどの小説の話に喩えれば,題材としての主人公をまず選ぶことに相当するでしょう.そして,その人の性癖や様々な行動をいろいろな角度から記述して,人間性を浮き彫りにしていくわげです.

表1. 風景画的研究…サイトを固定して,いろいろな項目を研究し,
それを総合することにより, サイトの個性を明らかにする.

こういったスタイルの研究を,私は風景画的研究と呼んでいます.私の研究フィールドは最近は湖が多いので, 湖の例でご説明いたしましょう(表1).一つの湖にはいろいろな環境要素があります.そこの地方の気象的な条件もあれば,水の流れ(潮流)もあれば,いろいろな生物もあれば,泥の話もあれば,周りに住んでいる人の生活や産業の話もある.それらが全て集まって,一つの湖の特徴を作っているわけなんですね.ところが普通の科学的研究では,一つの項目,・例えば潮流だけを扱う.そういう専門家がいて,潮流の三次元数値シミュレーションに命を懸けています.その人達の出す結果は,ある意味では一般的で普遍的と言えます.つまり霞ケ浦でも,琵琶湖でも,どこの湖でも通用する潮流のプログラムをつくるわけで,この図の縦の四角の範囲で研究しているわけです.一方,風景画的研究では,まず場所を固定する. 場所を決めなければ風景は描けないですから.そして, この横の四角のように,いろいろな項Hを研究して,そのつながりの中で一つの潮の個性を描き出していくわけです(表1参照).

こういうふうに,一般の科学とは違うアプローチを考えているのですが,私は決して科学を否定しているわけではなく,科学的思考の欠陥を補完する思考が必要だということなのです.と言いますのは,科学的思考ばかりでやっていると,社会的に弊害が生じる恐れが高いからです.最後にこのことを述べたいと思います.

科学的思考では「部分の分析結果を総合すると全体がわかる」ということを暗黙の前提にしています.また逆に「部分がわからなければ全体がわからない」と考えられています.それは本当か?

まずはじめに,環境の部分の数は果てしがないということがあります.先ほどの研究発表では鳥や虫の名前がたくさん出てきましたが,私は鳥や虫のことは殆ど知らないので,カタカナの名前がパーッと出てくると気が遠くなります.あれを全部調べないと自然環境の全体はわからないのだろうか.キリが無いのではないか,と絶望的な気持ちになります.また,もう一つ.部分部分がわかったからといって,じやあ全体がわかるか.部分を足し算して全体を表せればいいげれど,世の中の現象はたいてい非線形になっています.だから,細かく調べればいいというものでもないでしょう.細かく調べればいいという科学は,ひょっとして,我々に徒労を強いているのではないか.

そして,さらに重要な問題があるんです.科学の分析的または分解的思考に馴れると,我々の頭がいつのまにか線形化されていくということなんですね.これは,別に科学を職業にしている人達だけでなく,科学というイデオロギーに染まった我々の社会全体がそうなってぎているということです.その結果,部分部分について「これはこっちが良い,あれはあっちが良い.だから,それを足せば一番長い」という考え方が出てくる. たとえば,「ウサギの耳はなぜ長い」と聞くと,子供でも「遠くの昔がよく聞こえるから」と答えます.「キリンの首はなぜ長い」と間くと「高いところにある葉つばを食べられるから」と答えます.「ゾウの鼻はなぜ長い」と聞くと「手の代わウができて便利だから」と答えます. それでは,ウサギのように耳が長く,キリンのように首が長く,ゾウのように鼻の長い動物がいたらさぞ便利だろう,ということになりますが,そんな生き物は存在しません.それは生ぎ物ではなく化け物です.だけど人間は往々にしてそう考える.ギリシャ神話の中に出てくるげったいな動物とか,子供の見るアニメーションによく登場する変な生き物は,我々人間が考え出したものなのです.

実は,人間はそう考えるものなのです.自然が豊かで生物がたくさんいて,生活に必要な水を豊富に供給してくれて,しかも洪水などが絶対ない川.これは,ウサギのように耳が長くてキリンのように首が長くてゾウのように鼻の長い動物と同じようなものです.あるいは,ラジカセやテレビデオのようにですね,自分の欲しい機能を組み合わせていいものができてしまうかのような意識, それを前提とした止めどない環境改変というものが,科学的に行われている.それが全部ダメということではないのだけれども,その弊害を補完する全体的思考が必要だと思います.

この研究会でディスカッションされているように,今まで全然別の世界にあった人達が同じ場で議論して,「では全体としてどうなんだ,全体を捉える新しい方法はないのか」というように,「全体的なものの見方」が研究されて,そういうところから新しいパラダイムが出てこないかなと期待しながら,私のコメントを終わらせていただきます.

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1)本稿は, 平成11年3月29日に信州大学理学部で開催された, 日本生態学会46回大会の自由式シンポジウム「河川生態学術研究の現状と課題」 の総合コメントとして行われた講演を記録編集したものである (詳しくは p.6 を参照). なお, 本タイトルは編集部でアレンジさせていただいた.

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